2009年 06月 04日
裏切りの日
ふと手帳をめくると6月2日は
『裏切りの日』と記載されてあった。
明智光秀が織田信長を裏切った
“本能寺の変”がその日にあたるらしい。
歴史上では光秀が主君である信長を裏切った
悪役的な存在になっている。
しかし一方では、
光秀が信長に謀反を起こしたのは、
信長から屈辱的な仕打ちを受けたり、
信長のせいで母親を殺されたりなどが理由だという
光秀を擁護するようなことも多く書かれてる。
真実はわからない。
歴史という言葉を辞書で引くと、
“人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録”
と書いてある。
しかし、歴史のほとんどが、経過、記録に主張、感情のようなものが
プラスされているのではないかと思う。
近代史でさえ、様々な主張があるため不透明なものが多い。
そう考えると、歴史=真実とは言い難い。
光秀は知将として有名であり、家臣、民を大事にする
いわゆる“良い殿様”だと記されいる場合が多い。
謀反を起こした“裏切り者”であり、
“良い殿様”であるのだ。
1人の人間をとっても色々な見方があるものだ。
我々が生きている現代でも
“裏切り”だと言われる行為が多々ある。
美容業界も“裏切り”が多い業界だと言われる。
家臣が主君の意に反して行動を起こすことを裏切りと呼ぶなら、
それは裏切りなのかもしれない。
しかし、主君は本当に家臣を大事に扱っていたのか?
家臣のために死ねる位の愛情を持って接したのか?
家臣を手厚く扱っていたか?
そう考えると、
一方的に謀反を起こした家臣を裏切り者と決め付けるのは、
違うような気がする。
主君を信じ、命懸けで尽くしてきた家臣に対して
それを当然のごとく振る舞ったり、感謝の意を示さなければ、
逆に家臣からすれば、主君に裏切りられた思うのかもしれない。
光秀がどんな想いで、信長を裏切ったのか?
信長がどんな想いで、本能寺で最期を遂げたのか?
これは誰にも分からない・・・
事実は、光秀が主君である信長を
本能寺で殺したということだけだ。
『裏切りの日』と記載されてあった。
明智光秀が織田信長を裏切った
“本能寺の変”がその日にあたるらしい。
歴史上では光秀が主君である信長を裏切った
悪役的な存在になっている。
しかし一方では、
光秀が信長に謀反を起こしたのは、
信長から屈辱的な仕打ちを受けたり、
信長のせいで母親を殺されたりなどが理由だという
光秀を擁護するようなことも多く書かれてる。
真実はわからない。
歴史という言葉を辞書で引くと、
“人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録”
と書いてある。
しかし、歴史のほとんどが、経過、記録に主張、感情のようなものが
プラスされているのではないかと思う。
近代史でさえ、様々な主張があるため不透明なものが多い。
そう考えると、歴史=真実とは言い難い。
光秀は知将として有名であり、家臣、民を大事にする
いわゆる“良い殿様”だと記されいる場合が多い。
謀反を起こした“裏切り者”であり、
“良い殿様”であるのだ。
1人の人間をとっても色々な見方があるものだ。
我々が生きている現代でも
“裏切り”だと言われる行為が多々ある。
美容業界も“裏切り”が多い業界だと言われる。
家臣が主君の意に反して行動を起こすことを裏切りと呼ぶなら、
それは裏切りなのかもしれない。
しかし、主君は本当に家臣を大事に扱っていたのか?
家臣のために死ねる位の愛情を持って接したのか?
家臣を手厚く扱っていたか?
そう考えると、
一方的に謀反を起こした家臣を裏切り者と決め付けるのは、
違うような気がする。
主君を信じ、命懸けで尽くしてきた家臣に対して
それを当然のごとく振る舞ったり、感謝の意を示さなければ、
逆に家臣からすれば、主君に裏切りられた思うのかもしれない。
光秀がどんな想いで、信長を裏切ったのか?
信長がどんな想いで、本能寺で最期を遂げたのか?
これは誰にも分からない・・・
事実は、光秀が主君である信長を
本能寺で殺したということだけだ。
by sasaki-ryosuke
| 2009-06-04 12:16
| ビューティーナビ